2005年4月23日(土)
no.1 成せば成る。 加来 耕三 著
成せばなる。
知られざる「成功者」たちの
再起と逆転のドラマ


加来耕三

一二三書房 
1800円+税
 
2002年発行
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転換点=ターニングポイント
先人たちはどう立ち向かっていったのか?


「転換点=ターニングポイント」。その場にいる時には気付かないもの、若しくは自分で気付く事は困難な事だが、まぎれなく存在するものであろう。著者は次の言葉でその「転換点=ターニングポイント」を表す。

禍と福とは門を同じくす。理と害とは隣を為す。(淮南王 淮南子 人間篇)

その「転換点=ターニングポイント」で過去の人は如何に行動したか。それをまとめたのがこの一冊である。成功者。それは副題にあるとおり、知られざる「成功者」である。普通にいう「成功者」だけではない。待つのはハッピーエンドだけではない。例えば、沈没する潜水艦の中、最後まで部下を気遣い、そして職務を全うし亡くなった佐久間勉もこの本では取り上げられている。(確かに彼はそう振舞わなければ悲劇の主人公であり、英雄≒成功者に成り得なかっただろうが)成功=成果にならないところにむしろ私は好感を覚えた。そのほうが案外、実際に近いのではと思うのである。

「武士道は死ぬ事と見つけたり」。葉隠の一節だったと思う。ここまでではないにしろ、日常で自分がふと詰まった時そこに分かれ目はあるのではないかと思う。きっかけは必ずしも大きいとは限らない。そこでどう行動できるか。覚悟が出来るか。先人のエピソードを元にその大切さを教えてくれた一冊である。


ちなみにこの本を買ったのはこの本の中の一つエピソードを著者がラジオで話していたのを聞き、その言葉が印象に残っていたからである。

非凡は凡の中にある

何処で誰が言った言葉かは実際に本を手にとって見てもらうとして、この言葉が含意する事も多いと思う。
非凡は凡からうまれるのか?
それとも凡こそ非凡なのか?
はたまた非凡である事は凡なのであろうか……。
今日のあれこれ
 嫌われる事はなんでもない。ただ辛いのは誠を尽くし、そしてそれが通じなかった・否定された時である。情は理を超える。こう自分に言い聞かせる事も出来るが、そうすると自己保身に走る事になる。その辺をうまく見極めていかんとな、と思う今日この頃。
 
 先日、ベテランの小学校の保健室の先生と話す機会を得た。その人が言うには今の児童の問題の根底には「自己肯定観」があるという。それを得られず命を絶つもの。逆にそれにより他者を傷つけるもの。
自己保身と自己肯定の関係…もある。肯定できるもの「正しい事」とはなんなのであろうか?

よく話題に出る、公私という観念の問題もこれと関連するのではと思う。絶対正しい事など存在しないのだが、それを逆手に取り、人が円滑に生きていくのに必要なマナー、ルールまでもが無くなっていく。そしてそんな現状が「公」「私」の再考を迫る…。

 なぜこういうことを考えたかというと、大阪の地下鉄での事件があったからである。点字ブロックに物をおいた人を注意し、口論になり、注意した人が相手を突き落としてしまった事件。元を正せば悪いのは明らかに注意された人間である。その後の行為は注意した人の行為が罰せられるべきであろう。今は怪我をした(注意された人)が被害者、と言う構図が完全に出来上がっているが、それのみ注視して、注意した彼一人を悪者にし済ますというのはあってはならない事であると思う。
いい例えではないかもしれないが「盗人にも三分の理」である。善悪決めるのは楽な事である。しかしそれは生き辛い社会社会なのでもあるのではないだろうか。

注意した彼の今後を憂い、そして怪我をした人の回復を祈りつつ。
本日のお勧めリンク
http://www.tbs.co.jp/radio/np/ (TBSラジオ「中村尚登ニュースプラザ」この本の著者加来耕三氏が出演中)
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050421k0000e040037000c.html
(大阪の事件の記事 毎日新聞より

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