2005年5月6日(金)
GW特別企画 連続芋づる式第一回「まちシリーズ」
その5
(no.14) 都市と日本人 「カミサマ」を旅する 上田篤 著

都市と日本人
「カミサマ」を旅する
 
上田篤 著

 
岩波書店
740円+税
 
2003年発行
上記画像は
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都市には「カミサマ」がいる。ホント??

 特別企画も今日で5回目。今日を含め後2回である。「まちシリーズ」ジャンルが偏っている気もしなくもないが、後2回、お付き合い頂ければこの上ない喜びである。

 今日は概論的な一冊を取り上げる。この本では都市には「カミサマ」がいるという。それを様々な歴史、事例を紐解き説明していく。問題は「カミサマ」とは何か?という事である。この本では次のように言う。

都市は「情報の生産の場」である、というということでほぼ大方の意見が一致している。(中略)昔は情報生産の担い手は神さまだった。神さまのいるところに多くの人間が集まり、情報が交換され、そのおかげで生産が向上し、富の蓄積も行われた。
 ここでは具体例を挙げている。つまり、神さまは古代は新技術を持つ渡来人であり、天気を占う巫女であり、地理に詳しい専門家でありあったとするのである。それがあがめ奉られ、神となる。そして彼らが情報を生産、発信していくのである。都市において神さまがこのような機能をもつというのが一つ。

それに加え、神さまは景観≒町並みにも作用するとする。神様のいる場所が、何処でも見えるよう町をデザインしたり、あるいは神様のいる場所を中心にし町が形成されるとするのである。

 これらの事を事例を挙げ説明していくのである。
つまり「都市にはカミサマがいる」とした上で、そのカミサマとはの定義を説明し、そこから今後の都市のあるべき姿の考察へ展開していく、とこのような一冊なのである。
 
 とても論理的な、よく言えばまとまった、悪く言えば堅苦しい、退屈な本である。では何故これを取り上げたか?視点が面白いのである。この本に出会ったのは、「野球場」つながりである。カミサマの形の一例として、著者は甲子園をあげるのである。そこでは関西私鉄の多くが、参拝者を客層として発展したこと、つまり参道の変形であると述べる。(このあたり成田山の紹介の所とかぶる)そんな説があったするのである。

 また彼は最後に、日本の今後の都市デザインを計画性のあるものにしていくには「カミサマ」がいるような概念を導入する必要があるという。そしてその土俵的なものとして周りの山林の(景観)保護を訴えるのだが、その際の根拠が面白い。彼は校歌の研究をその根拠としてあげるのである。多くの学校の校歌では「山」が歌詞で歌いこまれている。これは山の(景観)は重要であることを示している、というのである。そういわれると何となくそうかなあーと思ってしまうのである。これも視点の面白さである。

 このような視点の面白い一冊である。気楽な気持ちで是非読んでみて欲しい。

明日はこの企画の最終回。この本では鎮守の森も都市の「カミサマ」と関連づけてふれている。最終回はこの鎮守の森に深い関係がある人物を取り上げた一冊を紹介したいと思う。 
今日のあれこれ
 「山田太一ドラマスペシャル・やがて来る日のために〜在宅で死を迎える人々と家族…訪問看護師が見つめた生と死の感動物語」を見た。在宅看護婦(あえて婦を使う)の事は永六輔著「妻の大往生」を読み、知っていた。改めてその必要性を感じる次第。勿論、必ずしも家で逝く事が是とは思わない。病院で逝く事も是である。自分が、そして周りの人が望む終わりを迎える事、これこそ己を持つ最終段階のような気がする。
 
 今年に入り近しい友を亡くした。先年は身内を亡くした。死は限りなく重い。死の冷たさ、重さ、そして暖かさを知れば知るほど、死を恐れ、死に涙する。そして、逝ったかの人の分も生き切らなければと思う。かの人たちから見れば生きて苦しめるだけ幸せなんだ、と言い聞かせる。
生を受けている。生きなければ…

参考・在宅ナース関係の本
永六輔著「妻の大往生」

押川真喜子著「在宅で死ぬという事」
   
本日のお勧めリンク
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/warabe.html (なつかしい童謡・唱歌・寮歌・民謡・歌謡のページ)
http://www.geocities.jp/scaffale00410/kouka/ (校歌の花束 日本の校歌、社歌、等のリンク集です。) 

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