古いけど新しいモノ?方言?
蝸牛(かぎゅう)考という本がある。さて蝸牛、これで何と読むか?正解は…そう「かたつむり」である。この本を書いたのは柳田國男、日本の民俗学の親分さんみたいな人である。彼はこの本で全国で「かたつむり」の事を何というかを調べた。そして提唱したのが「方言周圏論」である。誤解を恐れずまとめてしまえば、これは【
言葉は中央(京)から地方へ周圏的にそして連続的に広がる。その為、中央との距離に比例し、言葉も古いものを語源としたものになっていく。そしてそれは円状に分布している、という説である。】詳しくはオススメリンクの宮城県のページを見て欲しい。ここで補足しておかなければならないのは、これはすべての語について成立する訳でないという事である。成立する語もあるが、成立しない語も当然数多く存在するのである。民俗学でも今日では、そのように捉えられている説である。
私がこの説を知った時、一番初めに引っかかったのが、軸の設定である。文化の発信を京、中央に置いた事である。文化ちゅうものはそんなに単一的なものなのか?という思いが沸々と湧いてきたのである。軸を一つに設定すること、これは即ち文化の発信地が一つになる事と同意である。何かこれに抵抗を覚える。グローバリズムという語に抵抗を覚えるのと同様に。
もっとも、今日、メディアの発達は一方で、文化を一面的にしたともいえる。テレビで流された流行にのる事。他方でメディアの更なる発達は(特にネット)これを多面的にする可能性をも秘めている。
そんな今だからこそ、地方にある独自の文化を見つめることが今求められているのではないかと思うのである。自分の住んでいる町の歴史を知っているだろうか?貴方の家の場所は300年前は何があったか?1000年前は何があったか?そこに人は何故すんだか?どんな生活が営まれていたか…。それを知る事により独自の文化が見えてくるかもしれない。それを一つの軸、発信地しかない、という考えを持つことで否定してしまうのは惜しいと思うのである。
連続性。これは学びの一つのキーワードではないかと私は思っている。一つ例を挙げてみる。スーパーにあるパックの肉、そしてテレビ、牧場等で見る牛、豚、鶏…。ここではこれらを殺し、肉にする事への意識・認識が飛んでしまっている。と殺場(敢てこの語を用いる)の事、どれ位私たちは知っているだろうか。このように自分たちの生きている中で様々なもののつながりが薄く、若しくは切れてしまっていると思うのである。自分の足元、地域、地域文化、風土とのつながりも又然りである。
(宮崎県 都城市 の「タノカンサァ」)
方言に話を戻す。その中で方言というものを考えてみる。以前、「タノカンサァ」を紹介した。これはやっぱり「田の神様」ではなく「タノカンサァ」なのである。「田の神様」ではちょっと違う。
言葉とはそういうものなのではないかと思うのである。言葉で人は認識することが多々ある。やっぱり「タノカンサァ」は「タノカンサァ」で認識するのである。
地域それぞれに、それぞれの文化があったとして、それを認識するにはやはりその地域の言葉「方言」であろう。地域を、自分の足元を見つめる上でもっとも基礎になるもの、それらとの連続性を復元させる為の基礎、それが方言なんじゃないかと思うのである。私はそんな方言との出会いの、はじめの一歩としてこの本を薦める。
さて内容も紹介。この本では、各地の方言を使い、様々な文学作品を朗読していく。著者は方言がその土地の風土がしみこんだものであることから更にこういう。
【方言にはその土地の風土が色濃く染み込んでいる。人間が五感で感じる感覚が言葉に込められている。匂いや手ざわり、体の躍動感や空気ー長い年月をかけて、それぞれの土地の風土において作りあげられてきた体の感覚が言葉の中にしっかりと刻み込まれているのだ。】
【身体のモードチェンジー私はこのテーマをずっと追求してきている。(中略)これまでは、それぞれの土地にあって自分たちの方言を大切にするというところまでが限界だったように思う。私が提唱したいのは、自分の生まれた土地の方言だけでなく、他の土地の方言を練習して、抑揚等を身につけてしまうという事だ。この身体のモードチェンジによって私たちの心と体は解放される。】
そして彼はこのような考えに基づき方言には温泉のように効能があるとするのである。方言による身体のモードチェンジによる効能が…。それがどんなものか、それはこの本を実際手にとって、そして付属のCDを聞きながら見て、考えてみて欲しい。
先に書いたとおり、ネットの発展に見られるメディアの発達により、よりニッチな情報に目が向けられる時代が来ている。そんな今、この方言という自分の足元を見つめるものもまた新しい光を放ちつつあるのでは、と思うのである。そういう意味で今、旬なものそれが方言であると私は思う。