このサイトを今運営しているのは、ある一人の女性との関わりがきっかけだった。関わり…というものすべてが幸せと言うわけでもなく、とても辛い状態になったりした。その時、私は表現する場を失う事になったりもしたのである。自らが中心となって作ってきたその場を。そして又、多くの人と話す事が無くなり、更には話す事が彼女に話しが「通じなかった」から怖くなってもしまったのである。
そんな時にも「チクショー」「何で俺が!!」「今できる事やってやる!」「俺は一人でも出来るんだ!」などなど様々な事を思い、このサイトを立ち上げる事になった。最初は自分の学んでいる専門の地域学、民俗学のニッチな知識を紹介し、そこから関連する商品を紹介しビジネスを展開なんていう野望を持っていたのだが…(笑)。その名残というか、諦め切れない思いが「世界の中心で…」だったりする。
この野望は大学のある場を活性させる為の策の一つだった。そしてそれを計画し調べているうちに先例を見つけた。その先例で取り上げられていた「ほぼ日」(ほぼ日刊イトイ新聞)を見に行った時、この本の著者山田ズーニーさんと出逢ったのである。
それが山田ズーニーさんの「おとなの小論文教室」。
最初にその週の文を読んで「?」を持った。これが小論文教室??。それで過去記事を読み始めたのである。そうしていく中で題名を見て、文を読んでいくと、その時の自分に呼応するものがあるある…。そして最も呼応したのがこれだった。
孤独と小論文?
やはりこれを読んだ時も「?」が生まれた。でも今回の出来事や、過去の恋愛で自分の中で孤独がキーワードになっていて(置かれている状態など)この文を何度も読んだ。そしてその後、ズーニーさんの本を買い、紹介してきたという流れなのである。
今日は、その本の再度の紹介。それは今週、偶然にも何回かこの孤独と小論文の関係について考える機会があったからである。
その一つは生涯発達心理の講座である。そこで青年期の孤独について扱った。そして孤独を感じて人は他者とのつながり、愛などもを求めていく、と言う事を聞いた。もう一つは身体学。この講義ではスポーツの型について学んだ。型は人のそのスポーツにおける行動を普遍化したもの、と言う意味で有用であると。そしてその形成過程には自己再現性の追及などが必要であると。そしてそれは自分の体に聞くことであり、自分を知る事であると。
ここまで聞いた時に閃いたのである。
身体論。これは養老理論にある種近いものがある。情報がインプットされアウトプットされる。この繰り返しで人は生きていくし、この繰り返しを通してのみ人は学んでいく。翻って現在はそのインプットとアウトプットの関係がアンバランスになり、その結果、情報のみ概念のみが先行した脳化社会になってしまっていると。それが様々な問題を起こしていると、こんな感じの養老理論に身体論は近いと言える。
さてここから本題に入っていく。
ズーニーさんによると小論文というものは自分の意見を伝える、つまりコミュニケーションの一形態である。つまりこの小論文教室はコミュニケーションについて扱っているともいえる。
その事は今日改めて紹介している「あなたの話はなぜ「通じない」のか」を読むと分かることでもある。
そのコミュニケーションにおいてズーニーさんはインプットとアウトプットの間にある道具を置いた。それは
「?」である。外部から情報がインプットされる。それに対し反応・自己表現するために、自分はその外部からの情報と向き合わなければならない。その時に必要なのが
「?」である、というのがズーニーさんの考えであると私は思う。更に言えば、
その「?」を用いて自分と向かい合い自分を正確に相手に伝える、その事を目指しているのが、ズーニーさんの本の肝である、と私は読んでいる。
私も今回の事があり
「自分を相手に正確に伝える」これを自分の学びのミッションに置き始めている。考えてみれば、これはコミュニケーションの目標の一つの大きなものであると言えよう。そしてそれは様々な場面で必要とされるものであるのではないだろうか?レポート・小論文・日常会話・仕事・恋愛…etc。何か反応を受け取り、それに対応する事、自分を表現する事という面ではこのように多くの事柄が当てはまると思うのである。
さて更に確信である。ではなぜそこに「孤独」がでてくるか?である。
私の場合は、今回の事件をきっかけに自分の意志と関わらず、今いる集団から離れなければならなくなった。そして更に自分の変化から多くの友人と距離を置く事となった。その時自分は「孤独」を感じた。ズーニーさんは次のように言う。
自分の頭でものを考えよう、
自分を生きよう、
そう思ったとき、深い孤独が訪れる。
※ ※ ※ ※
孤独のとらえ方はいろいろあるけれど、
そのうちのひとつの側面は、
人と共通の目標がない
ということではないかと思う。
自分は、いままで船を乗り継いで生きてきたようなものだ。
家族という小船から、
小学校・中学校・高校・大学という大きな船にのり、
そこから、企業という巨大な船に乗り換えた。
そのときどき、
船の中で、はみ出したり、反抗したりしても、
船全体は、大きな一つの目標に向かっていた。
みんなと共通の目標。
その状態は、あたたかく、
心が安定する。
しかし、2000年4月、
私は、船から飛び降りた。
たぶんこのまま進みつづけると、
船の行く先と、自分の行きたいところのイメージに
開きがでるんじゃないか、
と思ったからだ。
つまり、オリジナルの行き先を探しにでた。
これは、きわめて自由なことだと思う。
飛び込んでみると、
そこは真っ暗な海。
独り、自分の感覚だけを頼りに
泳いでいかなければならない。
まだ自分の目標さえ形にならないのだから、
だれ独り、目標を分かち合う人は存在しない。
自分が「孤独」を感じたとき、自分は確かに「共通の目標」を失った。自分が組織の中で作ってきた目標を失った。それは否応にも自分ひとりでものを考える、自分ひとりで生きていく、と言う事を覚悟せざるを得ない状況だった。更に言えば、彼女に自分の意志を明確に伝えられなかった事で自身のコミュニケーション自体正に崩壊していた。
そんな中、自分の目標、生き方について考え始めた。そして、そこから出てきたのは紛れも無い「自分」そのものだったのである。人とは違う自分。
人とは違う自分。これに気付いた時、次の事に気付いたのである。それは
他の人は自分とは違う、と言う事である。
底の状態でズーニーさんのこの文を読んだ時、一番解ったようで解らなかったのは次の箇所だった。
独りぽっちの時間を、
孤独というか? 寂しいというか?
この別れ目は自分との向き合い方にあるように思う。
寂しい人は、
自分との対話を避け、さまざまに気をまぎらす。
だから、人とつき合うとき、
他者の中に、自分を探しているような気がする。
結果、自分に似たものしか愛さない。
孤独な人は、
自分の考えや存在を充分に見つめる。
だから、もう他者に自分の影を探す必要はない。
結果、自分とは違う「他者」を心から求める。
だから孤独の底は他者とつながっている。
そこに希望がある。
しかしである。孤独になり、自分は人とは違う・人は自分とは違う事が解って、その事が腑に落ちたのである。自分と他者がわからない時、確かに「他者の中に、自分を探しているような気がする。」のである。自分と似た考えの人を求めたり、話の合う人を求めたり…。それが自分と他者の違いがわかり始めると今度は、その事を前提にし、だから他者と真剣に交わりたい!=自分を正確に伝えたいと思うようになったのである。そうすると孤独は他者とつながると言う事と結びつくのである。
孤独と言う事を通し、自分と向き合う、自分に聞き、自分を知る事、それが結局、他者につながる事、より懸命に他者とつながる事を求め始めたのである。その時自分は「はっ!」とした。
孤独、そしてそこに僕がある、それは他でもない僕。他も僕ではない。だからこそ、ありのままの自分を伝える為、ありのままの、その人本来の状態での他者と交わる為には、真剣にコミュニケーションを考えていかなければならない…。
孤独は他者と向き合う入り口だ!
そう感じたのである。
そしてこの本を読み直した。
するとやはり、最初に孤独とコミュニケーションの関係が書かれているのである。
思わず「そうだよね!」と話しかけてしまった。そしてそこでようやく、自分の中で孤独とコミュニケーションが結びついたのである。
そして今はまた新鮮な気持ちでこの本に対峙している所である。
そしてそれは自分の中で一つの目標にもなった。大学の講義の課題も多くはこのコミュニケーションを問うているようである。ならば、これを磨いていく事、その場を創る事、これが必要のないか、と思ったのである。今は、その目標がプラスの原動力になり始めている。
一つの、彼女のお陰で見つけられた新たな事である。
あなたへ
今回、色んな事を感じました。怒り、嫉妬、悲しみ、絶望…。そんな中残っているもので大きなものには間違いなく、感謝があります。この機会、本当にいろいろな事を考え、そしてほんの少し、自分でも前に進めた、という気がしています。また文でごまかしている、というかもしれませんが、偽りの無い気持ちです。勿論、貴方の道を邪魔するつもりはありません。貴方らしく、良く生きられる事を心から望んでいます
そして間違いなく、こういうことが出来ます。がんばれ!がんばれ!
そしてそんな今思うことがある。
この文を読んでくれている貴方へ、そしてこれからどこかで出会うかもしれない貴方へ。
何かを受け取り、それで感じる事に、はずれ・間違いは無い筈です。
自分の考えが人と違うからと言って、間違っていると感じたからって、それを恐れないで欲しい。
勿論、自分の考えを曲げるな、意固地になれ、というのとは違う。
そうではなく、その考えを出す事、そこで人と交わって欲しい。そして自分を出して欲しい。
相手のいる中で、通じない事に泣き、悲しみ、怒り…そんななかでも貴方でいて欲しい。
その結果、自分を出し、変えざるを得ないならそれもいい、それを通せたならそれもいい。
わたしはあなたの事が知りたい。
あなたにあなたでいて欲しい。
そして自分も自分でいたい。そういう状態で交わっていきたい。
ある本の最後で著者はいう。