2005年7月23日(土) |
no.43-(1) 沖縄論 小林よしのり 著 |
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沖縄論
小林よしのり 著
幻冬舎
1600円+税
2005年
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右でもなく、左でもなく、行くは「ゴーマニズム」
さて、この本である。著者とはオウムの事件でその作品に注目して以来のお付き合いである。「差別論」「脱正議論」「戦争論」「台湾論」そして今回の「沖縄論」。私がこの作品が好きなのは固まらない事である。思考停止しない事である。この一連の作品、今後折にふれて紹介していくつもりである。その当時の動きを見てみると、もっと言えば今回の「沖縄論」が出されての反応、これを見ているとその事がよく分かる。
戦争論が書かれた時、俗に言う、右翼、保守(?)勢力から歓迎を受けた。その後歴史教科書にも関わり、左翼勢力から正に目の仇にされた。しかし、差別論の時は俗に言う左翼勢力とは悪い関係ではなかった。
本作は何と赤旗で書評をされ、評価されている。再びの左翼陣営からの評価である。
こんな流れが何故生まれるのだろうか?私はその要因が先に自分が好きであると言った著者の思考が固まらない事だと思うのである。では、それはどうして可能になっているかである。
一つは筆者の言う、「ゴーマニズム」で自身の立場をとる事に成功しているからだと思うのである。「ゴーマニズム」というと反感をもたれる人も多いかもしれないが、私はこれを自身と向かいあう一つの方法だと感じている。
何か事象がある。それに対し何らかの思いを持つ事、これは全くの自由である。(例えば憲法でも思想・良心の自由は規定されている。19条)しかし今、社会規範や同調圧力によりそれが困難になりつつあるのではないだろうか?
例えばこういう「常識」どうだろうか?
戦争はいけない。人殺しはいけない。人生には意味がある。etc
パッと思いつく事を挙げたので極端ではあるが(笑)。しかし一般的には「常識」と言われるものである。しかし戦争は必要だ!人殺しが成立する場合もありえる!人生に意味は無い!と思うこと。これは否定されるべきものではない筈であると私は思うのである。
私自身は戦争を必要と思わないし、人殺しはいけないと思うし、人生には何らかの意味があると考えている。ただだからといって先のように「思うこと」が否定される事、それはおかしい事だと思うのである。
むしろ、そう思ったところがスタートである。では何故そう考えるか?それを「考えていく」事こそ誠実な自分に正直な生き方であると思うのである。そこで他者の存在とぶつかる事も必然である。そういう風に考えていき成り立たぬ思いであれば、そう至ればその思いは間違いかもしれない。そういう流れで成立していくのが自身の「常識」であろう。そのスタートである思い、それが否定される事は考える事を拒否している「思考停止」状態である、と私は考える。
もっと言えば、その常識が誰かに被害を与えている場合、それを追認することにもなりかねない。常識が100%正義であるとは限らない筈であるから。そう考えれば「思うこと」が自由でない事は危険である、とすら私は思うのである。
だからこそ、それよりも思いを縛らず、そこからスタートする事のほうがやはり誠実な生き方、あるべき生き方だと思うのである。
その表れが「ゴーマニズム」だと私は思うのである。だからこの姿勢を私は評価しているのである。その変り続ける、思考停止しないと言う点を評価しているのである。
そしてもう一つ、戦争論からの著者の姿勢で一貫して評価しているのは資料を重んじる事、である。資料を見て認めれられる事を書いていく。この姿勢を私は評価しているし、だからこそ彼の著作を読み続けるのである。
資料を重んじる事、これに対する姿勢はこちらも資料を重んじる事、だと思う。であるから著者と違うのであっても資料を持って反論する事、これが礼儀だと思うのである。実は大学進学を私が決めた一つの理由は戦争論で感じた違和感への反証する能力を身に着けるためであったりもする。
もっと言えば資料を重んじる事、この姿勢こそ右・左を越えた独自の姿勢を確立できる理由のひとつであるといえるのではないかと私は思うのである。
私の師が学びについてかつてこう言われた事がある。
「君達は資料にもっと真摯に向かい合う必要がある。
そして資料を自分が作る段になると、その資料の価値が分かり、敬意を払う事が出来るようになる。その事は他者への敬意にもつながる。
そして資料と真摯に向かい合う事。それは自身の無力さを知る事でもある。
資料に基づき何かを示そうとする時、資料にない事は如何に自分の想いが強くとも書くことは出来ない。そこに自身の限界、無力さを感じることがある。
君達は学生の時こそ資料と向かい合う必要がある。」
この本はある意味、私の師がおっしゃった、資料と真摯に向かい合う事をしていると私は思う。そして、この資料に向かい合っていく姿勢、これも筆者の思考が固まらない一つの要因であると思うし、私が彼を評価している点である。
そういう流れの中で今回の本が生まれたと思うのである。
…と言う所で長くなってしまったので続きは明日以降にしたいと思う。とりあえずはその1という事で。 |
今日のあれこれ |
(1)「書く」という事
知り合いから、ここに書いてある事、分かるが誤解を招くよ、と言われた。
知り合いでなければ、「そう」と素直に受け入れる。
しかし、思うのである。今、訳あって自分はこのような発信の形しか許されていない。だが、知り合い側からの接触は拒まなければならない状況にはない。寧ろそれが歓迎される状況である。
誤解を生む、確かにそうかもしれない。それは十分に自覚している。
一方通行で書いているとそうならざるを得ないだろう。
正直書いていて怖くてしょうがない。でも書かなければと、思い、書いている。
中途半端に楽しいからだとか、ストレス発散だとかそういう思いではない。
現に私の揉めた相手はメール一通だすのに迷い、苦しんでいるかもしれない。
それを思えば…結構書くのも辛いし、怖いんですよ。
それよりも書くのを止めたら、と言うのではなくその誤解を確かめるようにして欲しい。直接確かめて欲しい。
「知り合い」いや「友」はそれが可能な関係なのだから。
私はこのサイトを知っている実際の友人達を信じている。そして逃げるつもりは私にはない。
だからこそ今日も書くのである。
(2)大学での一日
大学再編の中で最近、自分の所属している学科が廃止される事になった。昨年あたりから噂を聞き、何とか一矢報いよう、としてきたが、結局それもままならず、今週記者発表が行われた。
その次の日、大学は静かだった。
何も変らない夏の一日だった。
反対しろ、賛成しろというある立場を期待したわけではない。
しかし…
自分のいる場が大きな変化を向かえる事が明らかになった時、何でもいい、「動き」が感じられなかったのは哀しかった。
概定路線だからという割り切った態度からだろうか?
それとも自分には関係ないという無関心からだろうか?
私の感覚が鈍かっただけだろうか?
そんな日、いつも座っている大学のベンチで感じたのは夏なのに何故か冷たい風だった。
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本日のお勧めリンク |
右も左も関係なく…私のお気に入りサイト
http://www.nikaidou.com/index.html(nikaidou.com)
http://onnagumi.jp/ (おんな組いのち)
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