2005年8月10日(木)
今日のあれこれ

 今日は数少ない夏休み。ちと疲れが溜まっているようで、ここ数日本を読む気力もなく過ごしています。こんな時は小説でもと思い読むのですが、それも読めない。こんな日は自分の体に「ご苦労さん」といいつつ、可能な限りだらけて自堕落な生活を送っています。

…といっても昨日、一昨日と調査で横浜、明日はある人と食事がてら打ち合わせと…貧乏いや無能に暇なしという状況が続いています。ふららふらら。


さて今日は水曜。いつも読むズーニーさんの連載。ここはこんなグロッキーな状態でも辛うじて読んでいる所である。(参照
今週の記事にこういうものがあった。

まず高校生についてこう言うくだりがある。


(仕事の同僚が)高校生について、こう言っていたのを思い出す。

「あの子たちは、等価だから。
 自分の進路も、受験も、
 大事な期末テストも、明日の小テストも、
 勉強も、恋愛も、友だちも、
 なにもかもが秩序をもたず、等価で並んでいる。」

分別がつかず、困ったことだわねぇ、
分別あるおとながちゃんと指導をしてあげなければ、
という表情で、同僚は言っていた。

たしかに、大事なことと、それ以外の
優先順位がつかない若者は、
おとなから見れば困ったものだ。
進路を左右する大事な場にも、遅刻をしてくるし、
遅刻の理由を聞いてみると、
会場の入り口まできたとき、
ケンカした彼からメールが来て、
返事してて、だったり、
小説を読み始めてしまって、だったりする。
遅刻をすれば大勢に多大な迷惑をかける。
どっちが大事か、わからないのか?
そういうのを社会性がないというのだろう。



そうだなあ。そして今、自分は社会性のなさという一つの壁にあたっているんだよなあ。と一人得心していた。でも、でも、である。彼女は更にこう続けるのである。


私は、過去も今も、ずっと高校生を尊敬している。
大事なことの多くは
高校生に教わったと言っても過言ではない。
社会性がなく、時に、
やきもきさせられる若い人たちに、
なぜ、自分はずっと
リスペクトしつづけてこられたのだろう。



私が若い人をリスペクトする理由、それは、
「いま、それどころではない」と言わない強さだ。

おとなになった自分は、
「いま、それどころではない」とよく言う。

おとなは、
いったん目標に照らして、「いま」を選ぶ。
わかりやすい、はっきりした目標を掲げたときから、
自分のまわりのものが序列化する。
つまり、分別がつく。
大事なことと、そうでないことと、
優先すべき人と、そうでない人と、
いまやるべきことと、そうでないことと。

でも、その「いま」って何だろう?
「いま」は、目標に照らして
選べる程度のものなんだろうか?

若い人は、わかりやすい目標を掲げることができず、
それゆえ、「いま」を選ぶことができず、
「いま」に丸ごと体当たりされて、そのたびに、
もろ受け止めて、歓んだり、もがいたりしている。
そこに、強さと勇気を感じる。

「いま」のとらえかたは、もしかして
彼らの方がすごいんじゃないか、と私は思う。

「いま、それどころでない」と言わない強さ、これって必要だよなあと思っていることである。でもそう考えると自分は何処かで高校生(若しくはオトナでない人)を否定しつつ、その一部を強く求めていた気がした。

じゃあ、自分の思うオトナって何なんだ。って言うことにになる。それは自分の部分のオトナでない部分をうまく社会に適応させた存在なんじゃないかな、と私は思っているんだ、と気付いた。


更に、その自分の思うオトナ像を都合よく人に押し付けていないかな?とも自分でシャクだけど感じた。

ここ数日何人かの知己に言われた事がある。
「自分を老け込ませていない?悲観的な見方を変えれば見えてくるものもあるよ。」
「君は今の状況にもどかしさを感じているようだけど、それは結局、自身の不遇を憂いているだけではないか?全体的な集合性を求めているだけではないか?」


正直、下の言葉はあまりにも自分では状況とかけ離れている認識から出た、と思ったので、「カッ!」なった。でもその時にふと感じた事があった。

何故「カッ!」する?

ひょっとして自分にそういう所があるのでは?と思ったのである。考えてみれば自分が見える自己なんてたかが知れている。


自分にとって辛い事実。それはどうしても避ける癖が僕にはある。
「もう自分は十分にやった」「あいつが分かってくれない。」「あの人は○○だから、こう言うんだ」
何かと理由を付けて、どこかで逃げる自分がいる。
それを指摘されるとムキになったりして…。

そんな事を何となく感じていたとき、ズーニーさんの文を読んだ。
思ったのは「そうだよな!」という事。自分も常に「二元化くそくらえ!!」って言っている割には答えを簡単に出しすぎやしないか?という事だった。
否定していたもの、距離を置いたものの中に自分の求めるものがあった時、それではそこにいたることが出来ない。それって良いのかな、と思ったのである。
ズーニーさん見たいな捉え方、出来てもいいんじゃない?と思ったのである。


自分がふと考えた自分の中のオトナ像。これは一時期の安住に過ぎない事は分かっている。でもそれでさえ、事実を受け入れなければ得られないものなんじゃ、と思う。


以前の僕は言っている。
『私は逃げない』
そうだ、人が呆れ、諦めても僕は『諦めないんだ』と思う。
誤解があればそれを交わる事、態度で解き、それでもある別れは背負う。人に嘘つかない為に、自分に嘘をついてどうする、それが嫌で今回の試練も引き受けたんだろ!と自分を叱る。

自分の求める事は「相手、そして自分にも嘘をつかず、伝える事ができる状態」である。
そん為にまだまだやらないかん事がある。そう自分を鼓舞する。
周りを憂うなら、自分は少なくともそうならない、意地を見せる位の事はしなあかんな、と思う。


そんなヘタレな思いを抱きつつ、さて明日へと参りますか!!

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