2005年9月27日(火)
今日のあれこれ

今日は完全な雑感のみ。

終わりました。自分の中で何かいろんな事にひと段落のついた一日でした。

自分の中で大きな区切りとなった一日かな。
そんな事言っても自分の気持ちがまだ不安定で揺れているのは分かる。でも最後にメッセージを伝えて、ここが区切りになる所だと自分に言い聞かせています。

という事で今日は私物化。いつか自分が振り替える事が出来るように少し、考えを総括しておきたい。

うーん。学びの集団、これはゼミですね。ゼミでの自分の振る舞いの問題は
理由は何であれ「自分の思ったことを発現出来なかった事」。それは自分の発現する能力の至らなさもあったろうし、ゼミの仲間の大学での学びの能力の差に唖然として、結果上から見下ろしていたというのもあると思います。本来はその人の優れている所を見て、それを認める、という形を取ればよかったのだろうけど、自分が「学びの場」を狭く捉えていて、それが出来なかった。

「自分の思った事」
それは余りにも集団として、幼すぎるという事。
約束を守らない、話し合いは出来ない。(私含めて発現が出来ない)自分の好きな事しか出来ない。(勉めて強いる学び、勉強が出来ないという事)学問的アプローチが出来ない。ナドナド。

それを変化球で言うのではなく、直球で言えば良かった。
結局は衝突を恐れ、それでいて見下していた自分の至らなさなのだと思う。

活躍の場、仕切りたい…のでは?という指摘があった。
それは違う!と今言い切ることが出来る。

仕切る、という事はその人の色になる、という事。それでは「他者」がいない。
「他者」の存在を誰よりも欲している自分。寧ろ仕切る人に頼れれば楽である。皆そうだからしょうがなくイニシアチブを取ったが、それを裏返すと結局、「他者」を認めない事になっていたんだな、と思う。

今、ゼミのある女性との問題があり、結果、ゼミから抜けた状態にある。
彼女の復帰を待ち、自分も復帰、という路線をとってきたが、今回、事が大きくなり、親・先生が係らざるを得なくなり、その最初で(後に路線は変わったとはいえ)彼女と別のゼミにする、一筆入れるなんて物騒な条件が出たくらい、揉めた事を考えれば、最後は自分は結局今のゼミには戻れないまま終わるのかもしれない。

今まで、彼女、そしてゼミの人がその事をどうするか?という事を期待してきた。
しかし結局は何の動きのないまま、もう半年がたった。
結局今のゼミではそれが限界なのかもしれない。


私が、彼女の動き、彼女の事を待っていると、他の人からは「まだ彼女の事が好きだから…」と言われる。それは勿論である。

でも好きという性質がある時点で変わっている。
今は「学び手」「ゼミの仲間」としてである。愛情ではなく、もう【友愛】である。愛情の方はもうとっくに失恋していますよ(笑)
だからそう言ったほかの人に対してもある感情である。

知り合った、逢ったからにはその人と出来るだけ密に知り合いたい。
明日死ぬとも分からないのだから。その日その日を出来るだけしっかり生きる中で。
(勿論それが相手に負担になる事が多い。自分もそのギャップで欝になる事も多い。でもこういうのが自分のスタンスであり、それで付き合ってきている人もいる。これでいくしかないと思っている)

でも、今は自分が思うのは、付き合いが浅い事。少し自分の意志に合わなければ、その人を退け、自分からは動こうとしない。他の人とどうしてもちゃんと向かい合わない。

最初、僕も正直、好きになった相手としか、向かい合う事が出来ないのでは?と思っていた。でもそんな事はない、と今は思う。そんなに人って悲しいもんではないと思う。
そういう事は今回コミュニケーション関係の本をこのサイトでも紹介したとおり読んで感じた事である。更に言えば資料に真に向かい合う師や、ちゃんと向かい合ってくれた友の存在がそれを確信させてくれた。

コミュニケーションは他者が必須である。自分だけではどんなに頑張っても100%のコミュニケーションは出来ない。それを考えれば難しい事だが、何とかきちんと向かい合って付き合っていく方法を見出して、許されればそういう姿勢でまたいつか、ゼミで学んでみたい。
戻って、共に学ばさせて欲しい。今の正直な思いである。


彼女との事。
彼女はゼミでも関係のある人間である。
こういうようなゼミの状態で、ゼミの事を彼女とはちゃんと向かい合って話し合える事が出来た。彼女が唯一のそう出来る存在だった。その中で彼女の事が好きになった。

その反面、ゼミを仕切っていた自分は仕切る中で彼女にも厳しく接しなければならなかった。その中で一つ大きなキーになったのが「約束」という事だった。ゼミを運営していく中でどうしても守らないとやっていけない「約束」がある。
例えばゼミの合宿での準備において、先方がいる時の「約束」など。
そういう「約束」を守るのが苦手だった彼女に対して、私は厳しく接した。それは今でも必要な事だったと思っている。

ただである。問題は、その「約束」の考え方を彼女個人との付き合いにも持ち込んでしまった、という事である。結果、付き合う、付き合わないだの、何をする、しないだので厳しく迫る結果になってしまった。それで彼女を追い詰め、負担を与えてしまった。

熱くなっていて周りが見えなかった。
自分の中の彼女に実際の彼女を合わせようとした。そんな事は出来る筈がないのに彼女の心身を所有しようと自分はした。それは結局恋愛という事で考えれば、彼女の事を愛しているのではなく、ただ好きなだけ、一方的なものだけだったんじゃ、と今は思っている。

いつも御馴染みズーニーさんの文に今週こんな一節があった。


ときどき「愛」について、考えてみる。

ちまたで、「愛」という言葉をよく耳にする。
私も、「愛している」と思うことがある。
でも、そのとたんに違和感がわきあがってくる。

「それが愛か?
 そんなもん、愛じゃねぇよ」 と。

条件がつく。

「愛してる。あなたも私を想ってくれる限りは」

多くの人が、自分を理解してくれるなり、
必要としてくれるなり、
そばにいてくれるなり、
とにかく心のどこかで相手に、
「くれ」というようなことを期待し。

その一点を思いつめ、
その可能性がある限りにおいて、愛していると言う。

でも、それが果たせないと、
裏切られたと、傷ついたり、泣いたり、責めたり。
相手を恨んだり。

こっちを向かせようと、
相手が嫌がる方法で気を引いたり。

離れていこうとする相手のことを、
だめなやつだとダウンサイズしようとしたり。

相手が自分と離れたところで、
幸せに羽ばたこうとするのを寂しがったり。
悲しんだり、嫉妬したり。

……それが、愛だろうか?

(LESSON267 連鎖(2)より)

恋愛について考える時、愛とは意志であると言ったのはエーリッヒ・フロムであるが、正直思うのは恋愛と言う事を考えた時に、それが本当に相手を対象としているか?と言う事だ。
結局最後までその対象は良く考えてみると「自分」になってはいないだろうか?

相手を思いのままにしたいと思い、それを相手に強いる時、時にそれは相手を自分に合わせているだけのような気がした。それは心身を所有した(「女はどんな男を認めるのか」より)中でそんな面が露になったのではと思うのである。

そんな事を考えた時、今回の事は故に引き受けなければならない「別れ」であり、ゼミの試練であると思う。


今回、今の私が彼女に対して出来る最後の事をやった。

(と言っても人づてにアドバイスを送っただけだが)

彼女との「別れ」で恋は終わった。もう戻る事のないもの。でも大事な仲間の彼女に今の自分が出来る最後の事を今回ある友の力を借り、やった。
もう出来る事は、悲しいけどない。
彼女が今回の件で大変な状況にあるのは分かっているけど、もう出来る事はない。

諦めなきゃ…。これが正直な思いであり、「終わった」という思いもある。

取りあえずは休み、これからの事を考えたい。これからどうしていくか。
心機一転も良いし、もしかしたらゼミのほうはまだあがき続けるかもしれない…。

このサイトも少しお休みします。
出来る限り早く復帰するつもりですが、少々お待ち下さい。


意地でも本の紹介サイト(笑)

今日参考にした2冊。
(1)エーリッヒフロム「愛すると言う事」

(2)勢古浩璽「女はどんな男を認めるのか」


(補足)
(1)は名著なので説明は要らないと思うが、(2)のほう。題名で損をしている一冊だと思う。著者が言うとおりハウツー本ではない。寧ろそれらハウツー本を越えた骨太の一冊である。
そんなに奇をてらう事はいってはいない。しかし男と女について真剣に語っている、打算等を抜きにして、そんな一冊である。

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