久々の紹介。色々考えさせられる事のあった「
iのあるメール大賞」の冊子を読み、それを紹介しようと考えたが、調べてみると書籍化もされている様子。そこで今回は、その本をトップのリンク画像に使用した。
iのあるメール大賞
「メールだから伝わる気持ちもあります。」
何気ない毎日の中で、人の心と心をやさしくつなぎあたたかい物語を紡ぎだすたくさんのメールたち。
そんな心あたたまるメールを募集してきているのがこの大賞。(ほぼ冊子文引用)
このコンセプトを読んだ時に思ったことが今日の題である
「道具を「使う」事」であった。携帯メール。今や生活に無くてはならないものになりつつある人も多いのではないだろうか?全国の携帯電話の加入台数も今や9000万台を超え、(6月末時点)数字だけを見れば一人一台の日もそう遠くは無い感じである。そして、公共空間では携帯のマナーに関する放送が流れる事がもはや当たり前になっている。また個人にしても携帯がなくては不安でしょうがなくなる、やもすれば依存症のような人もいるのではないだろうか?
「だろうか?」いや間違いなくいる。
携帯のみではないが、私の場合はPC、携帯双方が無ければ、今や生活が成り立たない所に近づいている。他者との関係で言えばこれらで使用するメールでのコミュニケーションへの依存、これはここ数年で非常に大きなものになっている。メールの返信が無いと不安になったり、以前はメールボックスにメールが無いだけで落胆している事もあった。
そんな時に思ったのが、今日のお題である。
ひょっとして自分はPCや携帯のメールに「使われて」いないだろうか?
そう思ったのである。
それらにより自身のペースが乱されるとすれば、それは道具を使い、利便性を追求するという道具の本来の役割とは異なる。それはやはり道具に振り回されている、道具にうまいように人が「使われている」状態であるといえよう。
新しいもの。特にそれが今までの生活スタイルを変えるものであれば、そこには自分が今まで構築してきた生活を変える事が必要となってくる。そして、それはその道具が今までの自分の何らかの役割を代わりに行う事によってもたらされる「利便性」を得る事につながる。
これはいいことなのだが、道具に代わってもらう事で、よりほかの事ができる可能性が出来る反面、今までやっていた事が出来なくなる、感覚がにぶくなる可能性もある。
更に、新しい状況は新しい問題も生じる可能性も持つ。
これは携帯の進歩にも当然当てはまる事だろう。
携帯電話代は…。
メールのコミュニケーションに関する影響は…。
携帯使用による体への影響は…
まあ、言いすぎというかもしれないが、無視も出来ないものもあるのではないだろうか?
そんなこんなで私自身は携帯、PCなどに対して使っていながらもある種、マイナスの影響が大きいと考えていた。そんな中、その考えを改めるきっかけになったのが、この大賞の一連の作品との出会いである。
確かに、ここには「メールだから」表現された、様々な思いが表れている。
そういうものは何よりも携帯(いやケータイか?)を道具として「使う」事へのヒントを何か示しているような気がしてならない。それが何か私はまだ見出せないが、何か明るい見通しを与えてくれたのは間違いない。
携帯会社の企画だから、当然、そうなるとは思うが、それにしてもここにある思い、そしてそれが生む希望とは一度、触れ合ってみてもいいのかもしれない。
是非、一読を。