2005年10月4日(火)
今日のあれこれ



随分久々に本来所属しているゼミに顔を出した今日。
貧乏性で何かしていないと落ち着かない私、マグロみたいに動くのを止めると死んでしまうかも?!しれない私…、餌を探して泳いでいたら魚群に突っ込んでしまった。そんな感じの参加でした。

いい意味で、個性的な人が多い当ゼミ。愛等について考えていました。
久し振りで気まずい、というのもありましたが、それ以上に、愛がテーマなら「聞く」と言う事に徹してみようという気持ちで望んだ久々のゼミでした。

何故「聞く」事に専念しようと思ったか?
それは「愛と癒しのコミュニオン」で紹介されていたアクティブリスニングに対し、自分が興味があり、それで且つ必要だと思ったから。

独りが多くなると、私の場合は異なる他者と交わる場合に、その人がどういう人かを知りたくなる傾向が強くなりました。それで改めて「聞く」事の必要性を感じ始めたのです。

アクティブリスニング。それこそその内容については本を読んでいただく、若しくは過去の紹介を見ていただければ、と思うのですが、今日、自分の所属するゼミ、その前後の講義で思った事。人が話している時にその人を見ない人の多さ。

アクティブに聞く、というのはその態度でも相手にアクティブである、というメッセージを送ることも必要だと思う。例えば人の話している時に、携帯のメールはありえないし…。その人の発している事に対し、どれだけ誠実になれるか?それがアクティブリスニングの第一歩、自分はそう思う。


 逆に自分の反省点は相変わらず、頑固だと言う事か。先入観があり、少し聞いて、それが表面幼いもしくはくだらないと自分が感じたら、それをそうみなしてしまう事が多い。その時にふと立ち止まることの必要性を今日改めて痛感した。

大学が学問の場であるとしたら、そこは異なる研究分野の集合体である筈でもある。それならば、それを志すなら、そういう違いこそ受け入れてしかるべき、そんな事をぼ〜っと考えていた。

…アプローチ方法の至らなさというのは厳然として存在するのだが…。

今後は後は知己の復帰。それも考えてみれば、そちらにもよほど大事な事情があるのかもしれない。後日紹介するつもりだが「クリティカル進化論」という本を読んだのだが、その中で情報を集め、クリティカルな思考をしながらも、敢えてその中で答えを出す事を保留する勇気、曖昧さに耐える勇気も必要である、と言っていた。

そうする事によって単純化する事等へのクリティカルな思考を保持する為と言うわけだが、理で生きることは割り切れない事に生きること、何か面白いなと思ったその辺は又の機会に。

いずれにせよ、曖昧さに耐え、ここまで待ったんだからもう少し待ちますか。
自分の解釈でもそうなるでしょ、理の面でも。ねえ自分。

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