「人生で一番大事なことは、愛をどうやって外に出すか、どうやって中に受け入れるか、その方法を学ぶ事である。」
「愛は唯一、理性的な行為である。」
「互いに愛せよ。さなくば滅びあるのみ」
今日は雑感と言うか本の紹介と言うか…。初読の感想なのだが、感じたところがあったので書き残しておきたい。
愛と癒しのコミュニオンを読んだ。
この本、親愛なる友人にその出会いを頂き、読んだ一冊である。
今回のこの本を「読む」という事を通して感じたのは人との出会いの面白さと言うか奥深さだった。その友人と出会う前に私は一冊の本と出合い、それを大事にしてきた。
それは以前紹介したモリー先生の火曜日である。(
参照)
そしてこの本を紹介した後に庫裡無存さんの紹介へのお礼の文でこの本の一部をふと思い出し、引用したことがある。それがこの文章だった。(
参照)
【何でもいい、ある体験を例にとろう。。女性への愛でも愛するものを失った悲しみでも。私が味わっているような死に至る病による恐怖、苦痛でもいい。そういった感情に尻ごみしていると―つまり、とことんそれと付き合っていこうという考えを持たないと―自分を切り離すことはできない。いつもこわがってばかりいることになる。痛みがこわい、悲しみがこわい、愛することにつきものの傷つく事がこわい。
ところが、そういった感情に自分を投げ込む、頭からどーんと飛び込んでしまう。―そうすることによって、その感情を十分に、くまなく経験する事ができる。痛みとはどういうものかがわかる。愛とは何かがわかる。悲しみとは何かがわかる。その時初めてこういえるようになるんだ。『よし自分はこの感情は経験した。その感情の何たるかがわかった。今度暫くはそこから離れる事が必要だ』】(同書pp107より引用)
実はこのくだりが愛と癒しのコミュニオンでも紹介されていたのである。
そんな事は露とも知らず、親愛なる友人と偶然出会い、その人のお陰で偶然であった本で、自分の思い入れのある本とつながり、しかもその引用された部分が、これまた別に知り合った知人の事を考え思い起こし引用した部分と重なったのである。
こんなに出会いが重なる事ってあるもんなんだな、と久々に感じた。
僕はこの瞬間が好きである。このつながりを感じる時が好きである。
サイトに芋づる式とつけているのも、このつながりのきっかけを提供したいからである。
そんな小さな幸せを手にした一日だった。
さて本。
初読で感じたのはこの本に書かれている人への接し方って何処か資料に対する接し方と似ているな、という思いであった。
今、所属している集団では学びの方法を如何に確立していくか、が一つのテーマになっている。そこで自分は資料に対する姿勢を学ぶ事を提案している。
資料を読み取る時、まず純粋にその資料を読み取る事が必要となる。
その資料に敬意を表し(その資料は先人により、若しくは長い歴史により作られたものである)出来うる限り主観を挟まず読み取る。そうしないと資料の事実関係を読みきれず資料の価値・意味にも影響を及ぼす。
それからの自身の見解である。
何故、これを重視しているか、それは話し合い、コミュニケーションにおいてもそれが必須であると思うからである。
話し合いの場合、特にそれが学びの要素を多く含むとき、その意見を相手に伝える時に求められるのはロジックつまり、論理である。論理に必要なのは主張と根拠。その根拠たるものの一つが資料である筈である。(証拠)
その点で資料に対する姿勢、それを的確に使う姿勢は必須であると思うのである。
コミュニケーションの場合、第一の前提に
コミュニケーションは自己完結し得ない、という鉄則がある。当たり前の事だがコミュニケーションは相手がいて成立するものである。(勿論自己とのコミュんケーションは除く)となれば、
コミュニケーションをとるにあたり相手の理解が必須になる。
よく、「なんで分からないの?」とか、「ちゃんと読めよ!」とか「私の事を分かってくれない!」とか言う人がいる。その人はそんな時、相手の事を知ろうとしているだろうか?
相手の置かれている状況、癖、性格、受け取る側の特性を理解しなければ、自分の思いを的確に受け取ってもらえる事は出来ないといえないだろうか?
相手が何処にミットを構えているか、どんなボールが好きか、そんな事を一切考えずボールを投げたって、それは寧ろ取れないのが当然である。通じない!と思う自分がいるように相手だって、そうそう完璧なコミュニケーション能力を身に着けている事はないのだから。
だからこそ自分と他者のコミュニケーションの世界に生きる時、まず他者の理解が必要になる。そしてその理解をする時、まずは自身の立場をおき、純粋に相手の事を理解する事が必要になる。
この態度って資料に対する読み取りの姿勢と同じだと思うのである。
今、私のいる集団の問題点、それは一言で言えば「一人一人がつながらない」「自分の思いを出し切れない」そして「互いに理解しきれない」事つまりコミュニケーション能力の分野にあると思うのである。そしてそのための場(特に言えば大学であるから必要とされる議論の場)における手法の未熟さ、これも問題になっていると思うのである。
であるから、その二つに共通するものとして、自分は資料に対する姿勢を磨いていく事をテーマとして挙げている。
…となんでこんな事を書いてきたか?
それは先に述べたとおり、この本で説かれている人への接し方、アクティブリスニングがそれに通じるものがあると思ったからである。
アクティブリスニングこれは「ただひたすら聞く」事である、と本書は述べる。評価をせず、アドバイスをせず、非難もしない。相手のありのままを受け入れるのである。
これってどう?って最初私も思った。でも考えていくと自分が必要だと思っていた、資料への対し方で考えていた事に通じるものがあると感じたのである。
正直、難しいなと思っている。でも「そうだな」と思った。
本当に偶然に恵まれ、そしてその得た出会いも素晴らしいものだった。そんな中で読んだ本である。
何かの折にあなたともつながるかもしれない。それはこの本がキッカケかもしれないし、また別のものがキッカケかもしれない。
でも確かなのは私はその出会いを心待ちにしている、ということ。そんなあなたが大好きであると言う事である。
あなたと出会う日を私は心待ちにしています。
そんな事を思ってもいる。
またこの本ではこうも言っています。
「愛すると言うのは、実は、素晴らしさを味わう事ではない。嫌なところを受け入れることなのだ。いい所を好きになる事は、誰にでもできる。でもそれは愛ではなく、単なる好き嫌いなのである。好き嫌いを超えて、もっとも醜く、もっとも嫌な所を受け入れるのが本当の愛なのだ。」
好きを愛と捉えるのではなく愛を愛としてそのテーマを考えてほしい。
資料を見る目で人間を見てほしい。
まずは深く理解を!!!
交わる事を面倒がらないで!!
憎む事を怖がらないで!!!
そこから始まるのではないかと思う。
そして今、愛をこう捉えた時、モリー先生の言葉、一番最初の3つの言葉の意味が自分の中に染み込んでくるのである。
この言葉、今私達に必要な事なんではないかなあ。とふと感じた一日。