2005年6月30日(金) |
【栗無存さんの紹介no3】 怒りの葡萄 スタインベック 著 |
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怒りの葡萄
上・下
スタインベック
新潮社
各660円
1967年発行
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さあ、三度目の栗無存です。しかし、一向に文章が上手になりません。しかも、一回目のほうがよかったのではといつもながら思う今日この頃です。
さて、本日紹介するのはスタインベック氏の「怒りの葡萄」です。たぶん、今まで読んだ本の中でもっとも好きな本です。
この本は、トラクターの導入によって土地を負われた小作人たちがゴールドラッシュのごとく西へ大移動するさまを描いた叙事詩で、鋭い描写と取材による時代反映の正確さが売りで、ピュリッツァー賞を受賞した作品です。
とまあ、能書きはこれくらいにして、私はこの大移動をする中での人間ドラマに心を惹かれました。主人公は、小作人の大家族ジョード家。ある日、彼らの畑に一台のトラクターが現れた。地主や銀行の追い出しの圧力に苦しむジョード家に一枚のビラが届く。そこには、カリフォルニアで働き手を800人も募集するというものだった。家族は、決心し家財道具を売り、トラックを買い移動を始める。さまざまな苦難を乗り越えて、カリフォルニアに到着した彼らを待っていたものは…
この作品は、とても名言が多い気がします。いや、優れた作品は名言があるはずですから、私の好きな言葉というべきでしょうか?その、一部を紹介したいと思います。
「なあ、俺たちはこれからどうなっちまうんだろう?」と嘆く小作人に対してジョード家の長男トムは言います。
「いいや、おめえさんは別にどうなろうがどうでもいいんだ。自分を落ち着かせるための子守唄としてそんなことを言うんだ。」
この言葉を、聴いたときはっとなりました。人は、無意味に嘆く。嘆いても何にもならないのに。嘆くなんてのは結局、何もできず、自分を落ち着かせようとする弱いものがすることだといわれているような気がして、なんとなく恥ずかしくなったのを覚えています。
もうひとつ印象に残ってる言葉を挙げると元説教師のケーシーが死者を葬るときに
「じいさん(亡くなった)は、別に不幸ではない。なぜなら、死人のやることは決まっているからだ。だが、生きているおらたちは違う。たくさん道があるのを選ばなくてはならない」
この言葉も、また、心に響きました。
この二つの言葉から、私は生きる強さを感じた気がします。生きるのは、容易なことではない。地に足をついていなければ出ない言葉だなと思い私は、この二人にとてもあこがれました。
ほかにも、たくさん私の心に残った言葉がありますが、この作品はそれだけではありません。
作品の全体を通して、人間の欲望、市場の独占、ストライキ、自衛、など社会のひとつの構造を家族の移動中に出会う人々や出来事によって訴えるとても深い作品になっています。
私では、ほとんどこの本のよさを伝えられそうにありません。ぜひ、この本を読み意見などを生かせていただければありがたいのですが…
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コメント |
モリー先生の火曜日という本をかつて紹介した事があります。(参考)
ここではこんな事が言われていました。
【何でもいい、ある体験を例にとろう。。女性への愛でも愛するものを失った悲しみでも。私が味わっているような死に至る病による恐怖、苦痛でもいい。そういった感情に尻ごみしていると―つまり、とことんそれと付き合っていこうという考えを持たないと―自分を切り離すことはできない。いつもこわがってばかりいることになる。痛みがこわい、悲しみがこわい、愛することにつきものの傷つく事がこわい。
ところが、そういった感情に自分を投げ込む、頭からどーんと飛び込んでしまう。―そうすることによって、その感情を十分に、くまなく経験する事ができる。痛みとはどういうものかがわかる。愛とは何かがわかる。悲しみとは何かがわかる。その時初めてこういえるようになるんだ。『よし自分はこの感情は経験した。その感情の何たるかがわかった。今度暫くはそこから離れる事が必要だ』】(同書pp107より引用)
嘆き自体が自分を弁護するためのものかもしれない。しかしそれすらも経験してみて分るという面もあるのではないでしょうか?嘆きを受け入れていく事、自分の弱さに向き合っていく事は決して簡単な事ではないと思うんです。
考えてみれば、自分はどうしようもない人間かもしれない。しかしそれを存分に経験してこそ、受け入れてこそ、見えてくるものもあるのではと私は思います。
栗無存さんの仰るとおり、いつまでもある感情に居座る事、これもどうかと思いますが、でも先の引用でも言われているとおり、ある感情に思い切り自分を沈めること、あってもいいと私は思います。
人によっては私の雑記等を曝け出しすぎ、という人もいますが、その感情を見える形で、受け入れる、という事で敢えてかいているという面もあったりします。変に背伸びしても書けるものなんてのは自分にあったものだけって開き直って書いています。
栗無存さんもこのスペース、お好きなように使ってくださいね。
出来る限り応援しますので。
栗無存さん、ありがとうございました。
いもはた |