2005年5月24日(火)
no.28 モリー先生との火曜日 ミッチ・アルボム 著 別宮貞徳 訳
モリー先生との火曜日

ミッチ・アルボム著
別宮貞徳 訳

NHK出版
1600円+税

1998年発行
上記画像は
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貴方には繰り返し読める本 ありますか?

 本の読み方、何種類かあると思う。正確に本から筆者の主張を読み取る、論理的な読書。そういう事はあまり考えずに自分の感じたままに読む読書。親しい人と同じ何かを探す為に読む読書…。本の素晴らしい所はそのどの読み方をしても本自体はそれを拒絶することなく受け入れてくれる事だと思うのである。至極当たり前の事だが人に置き換えると…接し方一つで縁が切れる事も間々。接し方が自分で決められて、それに応じた顔を見せてくれる、それが本なのかな、と思う。

 この本もそれを感じる一冊。この本を買ったのは発行された年、今から7年前である。その時からもう何度も読んできた。それでも読む時々に新しい面が見えて来る一冊なのである。私は本に書き込みをする方なのだが、この本に限っては書いた月日を書くようにしている。そうすると面白いものであたかも日記のようになるのである。自分の気持ちがこの本を読むと掘り起こされ、又新たな発見があるのである。タイムマシンでもあり、新たな気付きの場でもあるのである。

 繰り返し読むことの出来る本。この本の場合、それは読み方で言えば論理的な読み方をするというよりも自分の感じたままに読める本だからそうなるのだと思う。どうしてそういう読み方が出来るか?それはこの本が人の死を通し、生をテーマにしているから、どういう状況下でも訪れる事に変わりないテーマを取り上げているからだと私は考える。
 この本はミッチとその師、モリーの二人の時間が綴られたものである。しかしモリーは病の床。そして死別の時は刻々と迫っている。そんな中この師弟はは死と向き合っていきながら、生、さまざまな事について学んでいくのである。家族、愛、感情、後悔、許し…。

 これらのテーマには正解はない。こういう家族が正解、こういう愛は正解、こういう許しは間違いで…何てことはない。だからこそ感じたまま、繰り返し読めるのだと思うのである。そして繰り返し読めるもう一つの理由、それはモリーの信条とも思えるこの姿勢にあるのだと思うのである。

【互いに愛せよ さなくば滅びあるのみ】

彼のこの姿勢が二人の時間にも貫かれているからこそ、言いようによっては説教になってしまう事もすんなり自分の中に入れていくことが出来るのだと思う。モリーは追い詰めない。私なんぞは正しいと思っていても、それを素直に受け入れることができないことが多々ある。我が強いのである。人と付き合っていてもそういう事はある。このサイトで最初の頃に紹介した「今を生きる」の中の一節「正義は時に人を傷つけることがある」、もそんな性格だからこそシックリ感じた。モリーにはその種の抵抗感を感じないのである。すんなりと受け入れられるのである。これは彼の姿勢がたまたま私に合っていたからかも知れない。だから繰り返し読めるのかもしれない。感謝である。

 今回読んでひっかかったのは次の文たちだった。

「人生のはじめ、子どものときには生きていくのにほかの人が必要だろう?人生の終わりも私のようになれば生きていくのにほかの人が必要だろう」「しかし、これが大事なところで、その中間でもやっぱりほかの人が必要なんだよ」

「自分を許せ。人を許せ。待ってはいられないよ、ミッチ。誰もが私みたいに時間があるわけじゃない。私みたいにしあわせなわけじゃない。」

「愛する人と一緒にいられないのはつらいだろう。だけど、向こうの気持ちとも折り合いをつけないとね」「人間関係に決まった処方箋はないよ。愛のあるやり方で調整しなかればいけない。当事者両方に機会を与えてね。お互い何を望んでいるか、何を必要としているか、何が出来るか、どんな生活かを考え合わせて。」


今回はこれらの言葉を持って又暫く生きてみたい。そして何かの折、またこの本を読んでみたい。その時、この言葉に感じた今の自分はどう見えるか?そしてその時は何をこの本から見つけるか?


今日は火曜日、師との時間。

貴方には繰り返し読める本 ありますか?


今日のあれこれ
 私事だが、実は今、私と私の師との時間、これも火曜日なのである。偶然というかなんというか。師。幸運にも私は師に恵まれてきた。本当にありがたいことである。
師。この言葉を聞くと吉川栄治の「万物皆師」という言葉を思い出す。確かにそうである。どんなものからも学ばせていただける。そして感じるのが「感謝」である。
師と話し、一つ得心のいった一節があった。それはこれも今、師としている山田ズーニーさんの文章の一節である。彼女の本は何度か紹介してきた。(その1その2)その彼女の文の一節である。

独りぽっちの時間を、
孤独というか? 寂しいというか?
この別れ目は自分との向き合い方にあるように思う。

寂しい人は、
自分との対話を避け、さまざまに気をまぎらす。
だから、人とつき合うとき、
他者の中に、自分を探しているような気がする。
結果、自分に似たものしか愛さない。

孤独な人は、
自分の考えや存在を充分に見つめる。
だから、もう他者に自分の影を探す必要はない。

結果、自分とは違う「他者」を心から求める。
だから孤独の底は他者とつながっている。
そこに希望がある。

あなたは孤独な時間をどのように過ごしていますか?

(ほぼ日刊イトイ新聞 大人の小論文教室 Lesson56 孤独という身体の教養 より引用 URL http://www.1101.com/essay/2001-08-08.html )

孤独である事が他者を心から求める、という所がいままでしっくりこなかった。でも何故か今日しっくりきたのである。
自分と同じ他者・自分とは異なる他者。他者に何を見るか?これって考えると面白いな、と思う。今までは他者の中に自分と同じものを探し、それを持つ人を探してきた。これは寂しいからだったと思う。でも何となく自分ってものがある、言い換えれば他者と自己は根本的に異なるものだと認識した時、今度は異なる他者に無限の可能性、愛着を覚え始めたのである。私の場合、これは師に他者を少し距離を置き見つめる事を教わった結果感じた事である。自分は自分ひとり、孤独である。でも、やっぱりズーニーさんの言うとおり

孤独は怖いものでも悪いものでもなく、
創造の母であり、
生きる歓びへと自分を押し出してくれるものだ。
人に伝わるものを書こうと思ったら、
孤独とはよくつきあわなければいけない。

(同上より引用)

だと思うのである。そう考えると孤独も満更ではと思った今日。久々に心地よく寝るのが惜しい今日。でも寝て、明日また考えよう。…気付けば前向きな僕。

読んでくれる人、掲示板書き込んでくれる人、サイトに来てくれる人、皆さんにも感謝。
もやもやとした気持ちを形に出来るこの場、そして読んでくれる人がいるお陰で、いろんなものを見つけれれています。
ありがとうございます
本日のお勧めリンク
http://www.1101.com/essay/index.html (ほぼ日刊イトイ新聞内大人の小論文教室)

http://www.gyao.jp/ (パソコンテレビ「GyaO」 たまたま見つけたサイトです。)

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