貴方には繰り返し読める本 ありますか?
本の読み方、何種類かあると思う。正確に本から筆者の主張を読み取る、論理的な読書。そういう事はあまり考えずに自分の感じたままに読む読書。親しい人と同じ何かを探す為に読む読書…。本の素晴らしい所はそのどの読み方をしても本自体はそれを拒絶することなく受け入れてくれる事だと思うのである。至極当たり前の事だが人に置き換えると…接し方一つで縁が切れる事も間々。接し方が自分で決められて、それに応じた顔を見せてくれる、それが本なのかな、と思う。
この本もそれを感じる一冊。この本を買ったのは発行された年、今から7年前である。その時からもう何度も読んできた。それでも読む時々に新しい面が見えて来る一冊なのである。私は本に書き込みをする方なのだが、この本に限っては書いた月日を書くようにしている。そうすると面白いものであたかも日記のようになるのである。自分の気持ちがこの本を読むと掘り起こされ、又新たな発見があるのである。タイムマシンでもあり、新たな気付きの場でもあるのである。
繰り返し読むことの出来る本。この本の場合、それは読み方で言えば論理的な読み方をするというよりも自分の感じたままに読める本だからそうなるのだと思う。どうしてそういう読み方が出来るか?それはこの本が人の死を通し、生をテーマにしているから、どういう状況下でも訪れる事に変わりないテーマを取り上げているからだと私は考える。
この本はミッチとその師、モリーの二人の時間が綴られたものである。しかしモリーは病の床。そして死別の時は刻々と迫っている。そんな中この師弟はは死と向き合っていきながら、生、さまざまな事について学んでいくのである。家族、愛、感情、後悔、許し…。
これらのテーマには正解はない。こういう家族が正解、こういう愛は正解、こういう許しは間違いで…何てことはない。だからこそ感じたまま、繰り返し読めるのだと思うのである。そして繰り返し読めるもう一つの理由、それはモリーの信条とも思えるこの姿勢にあるのだと思うのである。
【互いに愛せよ さなくば滅びあるのみ】
彼のこの姿勢が二人の時間にも貫かれているからこそ、言いようによっては説教になってしまう事もすんなり自分の中に入れていくことが出来るのだと思う。モリーは追い詰めない。私なんぞは正しいと思っていても、それを素直に受け入れることができないことが多々ある。我が強いのである。人と付き合っていてもそういう事はある。このサイトで最初の頃に紹介した
「今を生きる」の中の一節
「正義は時に人を傷つけることがある」、もそんな性格だからこそシックリ感じた。モリーにはその種の抵抗感を感じないのである。すんなりと受け入れられるのである。これは彼の姿勢がたまたま私に合っていたからかも知れない。だから繰り返し読めるのかもしれない。感謝である。
今回読んでひっかかったのは次の文たちだった。
「人生のはじめ、子どものときには生きていくのにほかの人が必要だろう?人生の終わりも私のようになれば生きていくのにほかの人が必要だろう」「しかし、これが大事なところで、その中間でもやっぱりほかの人が必要なんだよ」
「自分を許せ。人を許せ。待ってはいられないよ、ミッチ。誰もが私みたいに時間があるわけじゃない。私みたいにしあわせなわけじゃない。」
「愛する人と一緒にいられないのはつらいだろう。だけど、向こうの気持ちとも折り合いをつけないとね」「人間関係に決まった処方箋はないよ。愛のあるやり方で調整しなかればいけない。当事者両方に機会を与えてね。お互い何を望んでいるか、何を必要としているか、何が出来るか、どんな生活かを考え合わせて。」
今回はこれらの言葉を持って又暫く生きてみたい。そして何かの折、またこの本を読んでみたい。その時、この言葉に感じた今の自分はどう見えるか?そしてその時は何をこの本から見つけるか?
今日は火曜日、師との時間。
貴方には繰り返し読める本 ありますか?