2006年2月12日(日)
no.57(2) おとなの小論文教室 山田ズーニー 著
おとなの小論文教室

山田ズーニー著

河出書房新社
1300円+税
2006年
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ちがうこと
つたえること
 
 さて、二回目である。
前回はズーニーさんの言葉を引用してこの本がどんな本であるかを考え、そしてそこから自分が感じた事を説明した。それは、「コミュニケーションの根本は『違い』にある。」であった。そしてそれを(1)伝える事の必要性は「違い」から(2)伝わらないのは「違い」があるから、という二つの可能性を書いた所で今回へとつなげた訳である。

そこで今回もまたいくつかの先人の作品の一場面を用いて、書いていきたいと思う。


まずはこの作品からである。
この作品、マスターキートンを紹介した際に引用した台詞で次のようなものがある。

人間は一生自分と言う宇宙から出られはしない。
自分の中に描いた他人と共に暮らし、ドラマを作り、泣き、悲しみ、死んで行く・・・・・・

【真実だとしてもそれは悲しいことですよね。愛する人が感じた事を同じように感じたい】

しかし人間はこの宇宙よりもずっと広大な宇宙を持っている・・・・
あるいは私の言った事の方が幻想で、人間の心は本当には通じ合っているのかもしれないよ。

【どうしたら本当のことがわかるのですか】

聖フランチェスコのように奇跡を見るしかないな。

【答えにもならない】

でも奇跡は起こるよ。この私ですら見た事があるんだ。


(以上、第4巻キャプチャー1 喜びの壁より)

…とこの話ではこの後、自然の偉大さともいえる奇跡が起こるのだが…それは本を読んで欲しい。実は今回、この台詞を挙げたのは”この場面がある種コミュニケーションを表現している”と言えるのでは、と考えたからである。

自己という「宇宙」。『自分の中に描いた他人と共に暮らし、ドラマを作り、泣き、悲しみ、死んでいく』世界。それらの思い、感じた事を同じように感じ、通じようとするが、通じない。

…これなどはコミュニケーションの一つの行き着く形なのかもしれないと私は思うのである。

前回、触れたように「違う事」というのは時に「伝える」根源になり得、又同時に「伝わらない」原因にもなり得る。
各自の持つ「宇宙」の独自性。それを少しでも共有したいという(若しくはその違いを強調したいという)願い。これが「伝える」根源の一つの形だと思うのである。
しかし、各人はその各自の「宇宙」から出る事は出来ない。これが違う事が「伝わらない」原因となっている一つの形であるとも思うのである。

で、更にここからがこの場面を引用した理由であるが、そこは実は通じ合っているかもしれないし、いないかもしれない、本当の事は分からないとくるのである。これこそコミュニケーションの一つの行き着く先だと思うのである。それでも伝えていく。

私は本質的には伝わらない事、というのはあると思う。これは悲しい事で孤独な事とも言える。しかしこれによりコミュニケーションが生まれ、個性が生まれると私は考えている。
伝わらないからこそ伝える、伝えていくのだと思うのである。

しかし、それも本当の所は分からない……。

 
 「遠くへ行きたい」という歌がある。これは永六輔さんの作詞であるが、これに対し、永さんのお父さんは次のように言っている。

原書が見当たらない為、覚書からの引用になってしまうが引いておく。

『…決して人の前では返事をしてくれないもの、返事を求めて旅を続けるのが人間の宿命でもあり、巡礼の姿でもあるのだろう。
…面と向かっては決して返事をしてくれないもの、返事を求めて遍歴を続け、めぐり逢うことの出来ない恋人の姿を、果てない旅路の果てに期待する。しかし、「夢はるか一人旅、愛する人にめぐり逢いたい・・・何処か遠くへ・・・」などというのは例え返事をしてくれなくても、まためぐり逢えなくても、この恋人がいる事を六輔は知っているからなのであろう。
だから旅というもの、それ自体は一つの過程なのであって、もちろん過程は未完成なものなのだが、それが人間のあり方だとすれば、そのかぎりにおいて、この過程に身をまかしきることは未完成の完成ともいわば言えよう。・・・』
(親と子 永六輔pp85-92)


この考え方などは今回考えたコミュニケーションのあり方に近いと私は思うのである。
あくまでも一つの考え、自分の生きる上での一つの覚悟のようなものである。

こんなものを本の紹介にして著者の方に失礼とも言えなくも無いが、彼女の本を読んで、感じた事、表現したい事、自分はこういうことであった。

みなさんもきっとこの本を読まれる事で自分の声が出てくるに違いない。
その声をいつか是非是非私にも聞かせて欲しい。


最後まで読みきれる文章だったでしょうか?お教えいただきたく思っております。もし最後まで読めた、という方は一押し頂けると参考になります。更に何か一言!という方はその後にもう一押ししてメッセージを頂けると嬉しい限りです。


今日のあれこれ
 
 埼玉が活動の場である私。
先日は知人の紹介にこのような映画を見に行ってまいりました。
水俣病。そして胎児性水俣病。正直知りませんでした。
その中で患者の方が「水俣病はまだ終わっていない。」という事を仰っていました。
確かに目の前に患者さんを目のあたりにして「終わった」という言葉があったと聞けば、それはとてつもなく申し訳なく感じるもので…。
つきなみな感想ですが、環境汚染の影響の奥深さを痛感しました。
と、同時に見つめ続ける大切さを知りました。

タダ思ったのが、こういう運動のあり方について。
どうしても運動主体は熱くなり、その結果その熱意を相手にも求めます。
「消極的加害者」
私も肝に銘じている言葉ですが、これを誰彼構わずあてつけ、「○○しなければならないのです」とくれば反感を感じる事もままあると私はおもいます。(気持ちは分かるのですが)

人というのは幅があり、そして深いもの。
それなのに多様性が感じられない前のようなコメントはなんかおかしいんじゃないの?と首を傾げてしまいます。
幅を認めてこそ、色んな意見が出てくるのであって、その中で、その思いも発露されるべきと私は思います。
「ひとつの」良い事が世間の大半を占める。これは健全でないような気もします。

そういうと、常識は…という意見が聞こえてきそうですが、常識も疑う事は忘れてはいけない、と私は思います。

「疑う事」[複数の視点を持つ事」
これは、自分の行動への責任と不可分なものでは無いと私は考えます。

もちろん行動という点ではある一つの考え方で動く事になります。
そして、それに責任を持つ事も必須です。
一つの考えを絶えず「さらしていく」そして互いを認め、その上で態度を決めていく。
この事は多様性を認める意味で寧ろ辛いものです。
でも、必要なんじゃないかな?と思ったりしました。

  

最近、トトロの森ふるさと財団という所のお手伝いをしています。
名前の通り、狭山丘陵という場所を「トトロの森」として保全する活動をしているのだが、その中で狭山丘陵の文化の保全にも力を入れている団体であります。
単に自然保護一本槍だけではない活動の懐の深さが魅力だな、と私は思って、手伝わせてもらっている最近。
「懐の深さ」これも動きの強さの一つだなあと思っている今日この頃だったりします。
明日もイベント…
結構忙しい…のかな?
本日のお勧めリンク
http://www.1101.com/essay/index.html (おとなの小論文教室 ズーニーさん連載のエッセー)
http://www.1101.com/home.html (ほぼ日刊イトイ新聞 おとなの小論文教室が連載されている所)
http://www.kawade.co.jp/np/index.html (河出書房新社 出版元 紹介文があります)

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