2005年8月31日(水)
no.50 薬指の標本 小川洋子 著 
薬指の標本

小川洋子 著

新潮社
380円
1997年
上記画像は
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「心」と「からだ」

 大学のある友人に勧められ読んだ一冊である。…と気付いてみればもろりんさんの「本が好き!お気軽読書日記」でも大きく取り上げられている作家さん。こいつは掘り出し物かな…と思い読んだ一冊でもある。結果は予想を裏切らないものだった。

もろりんさんがサイトの紹介で「病みつきになる世界」「不思議な気分・感覚」とおっしゃっているが正にその通りで、読んだ後に何とも言えない感覚が襲ってくるのである。
今までに感じた事のない感覚である。(読み取る、味わい方ではもろりんさんのコメントをオススメします。私はどうも苦手で…)

最初に思ったのは「とんでもないもの読んじまったなあ」という気持ち。甘さ、切なさ、刹那感、そして何と無しに感じる怖さ。そんな色んなものが、静かに、でも強烈に押し寄せてきて、暫く身動きが取れない、そんな感覚がありました。

 作品としては表題の「薬指の標本」と「六角形の小部屋」の2作が収められている。
「薬指の標本」は人々が思い出の品を持ち込み、それを標本にする標本技術師とそこで働く事になった一人の女性との話。そしてもう一作、「六角形の小部屋」はその人のすべての語りを受け止めてくれる「カタリコベヤ」。そこでの出来事と出会いのドラマである。

確かに両方とも欲しいなあと思った。そして考えていった時、浮かんだのは「記憶」という言葉だった。何故か両方ともに「記憶」という言葉、もっと言えば自身の「認知」というものが関わってくるのでは、と思ったのである。思い出の品を標本にする側がいる。しかしそれが自身が標本にされる側にあったらどうだろうか?それは幸せなのかもしれない。でもどっかでそれが自分の本意でない事もありえるのかなあ、と思ったのである。

なんでこんな事考えたかというと…。例えば、ある人と出会い、別れたとする。その時、相手を認知、記憶しているのはあくまでも自身の中での(自身の価値判断における)相手である。それをそのまま持ち続けること、これって自分には幸せかもしれないが、ひょっとすると結構キツイ事なんじゃないかな…と思いたくないし、つらい事に目を向けたくも無いけど、考えてしまうのである。

そうすると、標本にする時も…とふと思ったのである。

自分の記憶・認知が形になる一つの方法は言葉という形を与える事なのかな?と思う。そうすると、それをする事って結構つらい事もある。思いは自由である。自由であるが、時にその思いの世界にあるが故に救われる、という事もあるんじゃないか、と思うのである。
思う、だけど形にならない、それ故の救いが…。
その狭間、そこで「六角形の小部屋」=「カタリコベヤ」が出てくるのかなと思ったのである。



 更に思ったのはこの「心」の作用とも言える「記憶」「認知」とそれをのっけている「からだ」。この二つが出てきて、そのバランスが普段見ることのないものだった事、それがこの二つの作品に今までにない感覚を引き起こしたのではないかと、私は思ったのである。

普段はこの一致する度合いは高い。「心」がキツサを感じれば、それは「からだ」に反映される。しかしその「心」が大きくなり、「からだ」が小さくなった世界。これが本作品の世界であると思うのである。

例えば自分でも訳が分からない時に「心」が動く時がある。そんな時自分は訳が分からなくなる。なんでここで…。ひょっとしたら、その感覚に近いかな?と思ったのである。

(解説もその点に触れていた。もっとも解説はそれ故に「からだ」の存在が際立つ、という論旨だったが)

でもその瞬間って確かにあるのである。でも気付く事の少ない。それに気付かせてくれる一冊であると私は思う。

 そんな感じで今日は、そして当サイトは「心」と「からだ」というキーワードで本作品を取り上げてみました。是非ご一読を!
今日のあれこれ
もし宜しければ、一度押し、その後のフォームより一言いただければ、嬉しい限りです。




ちょっと書評の方が心身不良の為、切れがありませんが、御勘弁を。

視点が高い、つまり「見下す事」が多いと指摘される事が多い。
いつも意識して直そうと心がけているのだが、それでも指摘される事があり、その度にどすーんと落ち込んでいる。
出来の悪い子なんです(泣)

(こんな時に「気付き」「考える」きっかけにしている言葉をいくつか。)

1.正論を拒むのは、人間の本能かもしれないと私は思うようになった。正論は強い、正論は反論できない、正論は人を支配し、傷つける。人に何か正しい事を教えようとするなら「どういう関係の中で言うか?」を考え抜く事だ。それは

正論を言う時、自分の目線は、必ず相手より高くなっているからだ。

教えようとする人間を、好きにはなれない。相手の目線が自分より高いからだ。そこから見下ろされるからだ。そして、相手の指摘が、はずれていれば、そのくらいわかっている、バカにするなと腹が立ち、相手の指摘があたっていれば、自分の非が明らかになり、いっそう腹が立つ。

望んでもいない相手に、正論をふりかざすのは、道行く人の首根っこをつかまえるような暴威だ。まして、あなたと対等でありたい、あなたより立場が上でいたい、と思っている相手なら、無理やりその座から引き摺り下ろし、プライドを傷つけ、恥をかかせる。
だから、相手は、あなたの言っている事の効能を理解するよりずっとはやく、感情を害してしまう。…(以下略)


目線が高いと思う時、無理に腰をかがめたり、相手にすりよったりしなくても、新しい関係を発見していく事で、目線は自ずと変わるのだ。
(山田ズーニーの「あなたの話は何故通じないのか」より)(参照


2.(正論は)正論という正しさゆえに、時として人を傷つける事もある。(中略)

世の中には強靭な意志を持ってつらい人生に立ち向かい打ち克っていく人たちもたくさんいます。言うまでもなく、それは賞賛すべき立派な生き方です。ただ、その中には困難を乗り越えてきたことに優越感を抱く人もいるようです。人生に打ち克たなかった、乗り越える意志が無かった人たちを素直に受け入れる事ができず、自分とは違う存在だという驕りと侮蔑を垣間見せる傾向が強いように思います。
これは自らの心にバリアを張っている状態であり、自分と違う人、自分と同じことをできない人は認められないという排他的になる危険性をはらんでいます。
(丸山眞行の「心で生きる」より)(参照

正論が正論である事、それは逆を言えば「誤」があるという事になる。その間にあるものを考えなければ、清濁併せ呑まなければ…と思うのが一つ。
「誤」人を殺す、戦争をする、騙す…。一見すれば「誤」である事への取りあえず一息つき、考える余裕、優しさが欲しい。
若しくはそれが自分で出来ない場合、その視点をかえる…という事も可能か?
上から見る=自分の方が優れている、との思い。それを打ち砕く為には、相手が自分より優れている点を見つけさえすればいい。

何にしたって「イタタ」感満載の今日この頃です。



そんな中でも散歩が好きで(彷徨うとも言うんだけど)歩き続ける夏休み。
その途中で遭遇した写真を紹介。



蝉…やはり旅立ちの時が来ている…という事か。
新たな天地を求め。
 

学びを追求する人…はこんな感じで「孤立」する…のかなあ。


追伸
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本日のお勧めリンク
http://www.metropolis-tokyo.com/doujunkai/ (同潤会アパートメントの記憶 無断リンクは…とあるので今日はリンクは貼りません。コピペで訪問していただければ…。今回の作品「薬指の…」のほうを読んでいて、ひょっとしてここが舞台のモデルかな?とふと思ったアパートメントたちです。)
http://www.apartment-photo.gr.jp/index.html
(apartment web photo galleryこちらも同潤会アパートメントの写真を公開なさっているサイトです。)

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