2005年9月9日(金) |
no.52 質問力―話し上手はここがちがう 斉藤孝 著 |
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質問力
話し上手はここが違う
斉藤孝 著
筑摩書房
1200円+税
2003年
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上記画像はアマゾンへの
リンクです。(画像自スキャン)
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他者を軸に置いたコミュニケーションの考え方
さて、当サイトのお家芸(笑)コミュニケーションに関する本の紹介である。今日紹介するのは、「声に出して読みたい日本語」で有名な斉藤孝氏の一冊である。
氏の本はこれまで、「声に出して読みたい方言」、「身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生」の2冊の紹介をしてきた。そして今日の本の紹介である。アマゾン、そしてセブンアンドアイのレビューの数を見る限り、相当な数がある。こういう時はいつも以上に当サイトなりの紹介を心がけていきたいと思う。
当サイトでは「身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生」を取り上げた時に次のように紹介をした。
彼の提唱した「技化」という考えがある。彼はこの本で「技化」について述べるのだが、この「技化」これはこの本以後の彼の著作でも一つのキーワードになっている。
「技化」を様々な身体行動(表現)つまり、恋愛行動、質問行動、整理行動など対象を置き換え、説明していく、それが彼のコミュニケーションを読み解く一つのスタンスになっている。(ちなみに声に出して読みたい日本語、これは日本語の力をよい文を読む事(つまり型)で技化することを意図した本だと著者も言っている。つまり言語活動の「技化」である。)
(以上8月22日)
さて、この本を見てみよう。
コミュニケーションを引き出す「質問力」には明らかなコツがあり、技化できる。それが私の言いたいメッセージである。(pp36より引用)
私は身体次元におけるコミュニケーションを研究テーマにしてきたので、対話も身体を基本に考えている。(pp65より引用)
このようにこの本でも示されており、また当サイトでも以前に述べたとおり、この本は質問するという事を技化し見につけていくための一冊である。
さて、技化についてもう少し考えてみようと思う。著者は技化には形による習得と、相手の行動を真似し見につける習得の二つがある、としている。
この本でもその為に多くの例を出し、真似る例を提示している。更には技化するために質問を座標軸を使い、分析していくのである。この事は自分の行動を意識化するという事につながっている。(意識化する事からそれを技と考え、技化へ進む事が出来る。)
また、形という考えを使えば、筆者がいくつか出している具体的な質問のパターン(オウム返しや、変化の事を質問する)というものがそれぞれになると考える事もできなくもない。
そして意識化という事で言えば、筆者ははっきりとこの本の目的は「質問力」というコンセプトを常に意識化する事にある、と言っているのである。この点が私がこの本を押す、一番の理由である。
何故か?
こういう本は俗に「ハウツー本」と呼ばれる。こういう本を巡ってある人と議論をした事がある。それはハウツー本の有用性についてであった。
彼はハウツー本を読む事により、手段が固定化され、独創性が失われる、という事を言った。私もそれは一理あると思う。しかし私はそれでもこのようなハウツー本の存在を積極的に認めるスタンスである。そして、その理由がこの本で著者が述べている、意識化をする事を目指すという意義においてなのである。
確かにその本にどっぷりとつかりきり、そのままというのは独創性を奪いかねない。しかし一冊一冊の本はきっかけになりうると思うのである。
「自分の頭で考える」という事が前提になれば、様々な座標軸を用い、多角的に自己、他を分析するのにはこのように概念がまとめられた、手法がかかれた「ハウツー本」も参考にする、という事も可能なのではないか、と思うのである。
何もこの本に書かれている事をすべてやれ、というのではない。意識化してもらえれば…、という筆者のスタンスに私はそういう点で非常に好感を持つのである。
さてもう少し紹介をさせてもらいたい
筆者は自身の質問に関する基本的な考えをこう表現する。
「沿いつつ、ずらす」
相手に沿っていきつつ、少しずつ話に方向を(自分が聞きたい、その場の目的等にあわせ)ずらしていく事が、質問によるコミュニケーションのポイントであるとするのである。
ここからもう一つの本書のポイントについて考えてみたい。
質問、というものが存在する時、そこには必然的に対象が存在する。(山田ズーニーはこの対象を他者に加え自己をいれコミュニケーションを論じているが)この本の場合はあくまでも相手が存在し、その相手に質問する、その質問をテーマとしている。
このように他者への質問をテーマとする事、ここに大きな意義があると私は思うのである。そうして他者へのアプローチでもってコミュニケーションを考える事により、コミュニケーションが自分中心から相手中心へとその重点が移ってくると思うのである。
どういうことか?
コミュニケーションに問題がある、とした場合、貴方はどんな場面を思い浮かべるだろうか?
「自分の話が相手に伝われない」
「相手の話が分からない」
こういう場面が主に浮かぶのではないだろうか?
そうした場合、こういう事も含まれているとはいえないだろうか?
「相手にとって自分の話が分かりずらい」
「自分が相手の話を理解できていない」
相手の側に立てば、こういう視点もありだと思うのである。そしてコミュニケーションにおいてはその相手の立場に立つ事こそ重要であると思うのである。
以前、「愛と癒しのコミュニオン」を紹介したが、そこでは傾聴という概念が取り上げられていた。それは相手を主において、問題を見つめ、相手にそって相手に自己とのコミュニケーションをしてもらう、そうして自分はその相手とコミュニケーションをとる、という事であった。
これでもそうであるが、相手という概念をコミュニケーションの軸にすえる事、それには大きな可能性があると思うのである。それはコミュニケーションが相手との相互関係により成立するものだからである。
しかし実態はどうしても自分の立場だけで(私の場合は)考えてしまいがちである。そういう意味で他者という考えをいれるという意味で、このように質問をテーマとし他者をコミュニケーションの中に位置づける事は意味があると思うのである。
沿う、ずらす、これらの言葉はいずれも相手があってそれに対する働きかけを表す語である。この二つの語を用いて質問・コミュニケーションを表す、やはりそれは他者という視線があり、かつ他者がコミュニケーションにおいて主になっているといえよう。
私はそういう点においてもこの本は「いいなあ」と思うのである。
このようにコミュニケーションにありがちなよりよい自分をアピール!という感じの自分中心の考えとは一味違った一冊である。
是非一度手に取ってみて欲しい。
最後まで読みきれる文章だったでしょうか?お教えいただきたく思っております。もし最後まで読めた、という方は一押し頂けると参考になります。更に何か一言!という方はその後にもう一押ししてメッセージを頂けると嬉しい限りです。
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今日のあれこれ |

さて、これである。これ実は鯨(くじら)のひげなんです。
とある筋から頂きまして、宝物がまた一つ増えました。(実は余り気味らしいけど)
鯨のひげ…というとこれが何に使われていたか?
文楽の人形に操り糸に使われたり、又その他のからくり人形にも使われたりしています。
後は…名前の通り鯨尺(日本の尺貫のものさし)、くつべら、西洋に行けばコルセット、パラソル更にはバイオリンの弓(の一部)にも使われていました。
(更にバイオリンつながりで言えば三味線の皮、あれはネコの皮です。)
少しまじめになれば「命」というものを考える時、鯨について考える事はとても大事かな、と思います。
鶏、豚、牛を散々食用にしておいて、何故鯨を食用(商業用)として捕る事を否定するのか?
ひょっとすると「命」には重さがあるのか??
そんなことはない、食の原罪というものを見つめるべき、と私は思っています。
そんな事をひげを見て考えた昨日、今日でした。
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本日のお勧めリンク |
という事で鯨関係のサイトを…
http://www.e-kujira.or.jp/index.html (鯨ポータル・サイト)
http://icrwhale.org/ ((財)日本鯨類研究所)
http://www.town.yamada.iwate.jp/kujirakan/index.html (岩手県岩手県下閉伊郡山田町 鯨と海の化学館)
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