2006年1月19日(木)
no.57(1) おとなの小論文教室 山田ズーニー 著
おとなの小論文教室

山田ズーニー著

河出書房新社
1300円+税
2006年
上記画像はアマゾンへの
リンクです。

ちがうこと
つたえること
 
 当サイトの隠れた主題の一つがコミュニケーションであり、そしてその代表選手が山田ズーニーさんである事は数少ない常連さんならご存知かもしれない。(そうなんです、実は)という事で、今回、そして次回の2回を使い、ズーニーさんの新作、おとなの小論文教室について書いてみたいと思う。

 この本、ほぼ日刊イトイ新聞で連載されているコラム、「大人の小論文教室」が書籍化されたものである。このコラムの一読者としては「待っていました!」の一冊である。

このコラムで著者はこの本について次のような事を言っている。


来年、120周年を迎える河出書房新社から
4冊連続出版になると思います。

タイトルから、中身から、
このまんまの世界観を尊重し、
温かく世に送り出そうとしてくださっている
会社の姿勢に心を打たれました。

第一巻編集のため、ひさびさに
5年前の自分の書いた文章を読んだのですが、
へたくそなのに、弾丸のように響いてきます。

言葉ではなく、技術ではなく、
読んでいて、めちゃくちゃ
かきたてられるものがあります。

Lesson271 独立感覚 − independent senseより引用)


『おとなの小論文教室。』第一巻のテーマは、
「自分を表現する」ことです。

ずっと読んできてくださった方も、
このテーマで一冊に編み上げられたとき、
まったく違った読後感に
到達することに驚かれると想います。

読んでいるうちに、あなたも何か表現したくなる。
表現することへの無限の勇気がかきたてられる。

自分でいうのもおかしいですが、
そんな一冊になったと、お約束できます。

Lesson281  あなたの言葉が聴きたいより引用)

…と上の文章にあるとおり、シリーズ第一冊目?のようでもある。もう一つ、読んでいて「確かに」と思った事が二つ目の文章に示されている「自分を表現する」というテーマで改めて編み上げられた時、今までとは違った読後感が訪れる、ということだった。著者は前書「考えるシート」の中で「情報は配列がポイント」というようなことを言っていた。それを実感する実例、それが本書であると私は思った。

毎週、ズーニーさんは色々な事を考えて書いているんだろうけど、その中の軸、ズーニーさん自身が見えてくるのである。彼女の言葉でいうならばそれは「根本思想」というのだろうか?彼女の本を読んでいて僕が揺さぶられた事は「何故、表現をするか?」という事だった。この事は過去に何回か触れている。それは下のメニューのコミュニケーション系の所から過去紹介した本を見ていって欲しい。

 そんな今まで感じてきた事と今回感じた事、それが改めて明確になった時、僕の中でも「何か」が生まれた。そして彼女の言うとおり、何かを表現したくなった。面白いものである。孤独を問題にしていた自分が、今、この文章を書いている瞬間全てのものから距離を置き、携帯の電源も切って、PCのメールソフトも切って、音楽もかけないで、ただ必死に画面を見てキーボードを叩いている。

長くなる。読まれない。でも書きたい。頭からはたくさん湧いてきて溢れてしまう。読んでくれる人の思いが聴きたいし、自分も伝えたい。
僕は何故書くか?僕は何故伝えようとするか?



 そして今回伝えたい事。それは「ちがうこと つたえること」というテーマである。
コミュニケーションの根本にあること、それは「ちがい」だと思うのである。これがあるから伝える事が生まれる。

自分が相手に伝える。それは何を伝えるのだろうか?
僕は対象物との「差」「違い」であると思う。

僕は「こうだ!」私は「こう」。貴方は「どう?」

こういう反論がありそうである。
私は貴方と「同じ」という事を伝える。だから「差」「違い」ではない!
確かにそうだと思う。僕自身もそういう場は多々ある。恋人との一幕。仲間との時間の中で。
でも、これも「差」「違い」というものがあるからこそ、「同じ」という概念が生まれるだと僕は思う。

別の言葉で言えばこの違いは「自己」という言葉にも時にはなり得るだろう。何にせよ「違い」これを伝えたいからコミュニケーションをすると僕は考えている。


 次にじゃあ「伝わらない」と言う事はどういうことか、何故伝わらないのかを考えてみたい。
これも僕は「違い」「差」があるから伝わらないんじゃないか、と思う。

もし対象と自分が「同じ」物を持っていれば、(思考など)それは問題なく、理解でき、伝わると思う。同じものをもっているのだから。

また反論が聞こえてくる。例えばズーニさんは「あなたの話はなぜ「通じないのか」」というものを書いていて、その中ではメディア力という概念を取り上げ、そこからコミュニケーションの問題が伝わらない原因であるといっているぞ!と。

これもその通りである。だとすればその「伝わらない」結果、メディア力が足りず、コミュニケーションに問題がある時、その現状で自分と相手の間には何があるか?そういう見方で見たとき、そこにあるのはやっぱり「違い」だと思うのである。


こうしてみると、伝える基本も、そして伝わらない基本も「ちがい」というものがあると思うのである。
…と長くなったのでここまで。続きは明日以降にしたい。



最後まで読みきれる文章だったでしょうか?お教えいただきたく思っております。もし最後まで読めた、という方は一押し頂けると参考になります。更に何か一言!という方はその後にもう一押ししてメッセージを頂けると嬉しい限りです。


今日のあれこれ
 
 久々に気合を入れて書いています。何か伝えたいんですよね。その辺の自分の気持ちもおいおい書けていけたらな、と思っています。

 この本の出会いのきっかけとなった問題。
あの「彼女」と問題ですが…。
集団には復帰しました。必要とされている。そしてそこには他にも人がいる。そう考えて。

彼女とは距離を置いています。
僕からは距離を縮める事はないと思います。
「無責任」という声も自分の中から聞こえてきます。

ただ、自分のためにも書いておきたいのですが、彼女も、そして自分も何度となく、今回の問題に向き合い、お互いの違いを確認し、共有できる所はして…やりとりを今出来る事で重ねてきました。
約一年立ってのやり取りの開始、そして一年前に起こったことの整理、お互いがお互いの世界の中の事柄になっていて、辛くて、それを出し、相手の世界を聞く、と言う事は自分の世界、つまり自分の中の現実を打ち砕かれる事で。。。

それをやっていました。
そしてそれに専念していました。
何か少し落ち着いた感じです。
今は思います。
自分が、そして周りが彼女の為と思っても、それが彼女の本意でないなら、働きかけた後は引いてあげないといけないのかなと…。
まだ言葉にはなりませんが、、、ある形でのある状態に収まった、と言う事は確かです。
ここに今の気持ちとして記しておきたいと思います。
これも落ち着いてから暫く、ようやく少し書く事ができました。形に出来ました。


更にはその中で新しいパートナーとも言える人を見つけることも出来ました。男?女?仲間?ガールフレンド?
さあどうでしょう(笑)

ひょっとしたらそこに安住できるからというのが、本当で執着心がなくなったというのが事実かもしれません。
自分はとんでもない卑怯者なのかもしれません。
ただ、どの場でも真摯に向かう、それだけは肝に銘じたいと思っています。

私信
Westieさんへ
掲示板のレス、落ち着いた状態で書きたいので、もう少し時間下さい。
遅れていてすいませんm(__)m
本日のお勧めリンク
http://www.1101.com/essay/index.html (おとなの小論文教室 ズーニーさん連載のエッセー)
http://www.1101.com/home.html (ほぼ日刊イトイ新聞 おとなの小論文教室が連載されている所)
http://www.kawade.co.jp/np/index.html (河出書房新社 出版元 紹介文があります)

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